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十字架は私のため 森 大二

更新日:2023年7月10日

生駒聖書学院 第73期

森 大二

ホーリーバイブルチャーチ


救いの証し

私は幼い頃からクリスチャンホームで育ち、物心ついた時から牧師になりたいと言っていて、小学校3年生でイエスキリストを救い主と信じ、洗礼を受けました。そんな私は教会にいるのが当たり前の生活を送ってきました。しかし成長していくにつれて、教会に行くのが義務的になり、嫌になることも多くありました。


月日が流れ、私は保育士として働くこととなりました。仕事の中でしんどいことが多くあり「自分の存在ってなんなんだろう」「自分には価値があるのか」と思うようになりました。その都度、神様に祈る中でイザヤ書43章4~5節「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。」のみことばが私の支えとなっていました。


保育士4年目の24歳の時に、神様にある幻を見せてもらいました。それはイエス様が十字架にかかっている光景でした。十字架にかかるイエス様の側に私が立っていて、次の瞬間、私がイエス様の脇腹を自分の右腕で刺し通していたのです。その腕から流れて来るイエス様の血の温かい感触は、今でも忘れることができません。その時に「イエス様を十字架にかけて殺したのは私だ。私は罪人の頭だ。」と自分の罪を責めていたら「わたしはあなたの罪を赦し、暗闇から救うために来た」と声があり、そこでイエス様は自分のために死んでくださったのだと実感しました。


冒頭で話しましたが、私は生まれた時から教会に行っていて当たり前のようにイエスキリストを唯一の救い主であることは信じていましたが、このことをきっかけに自分の人生はイエス様に捧げようと本気で思うようになりました。それから私の考え方や価値観が少しずつ変わり神様を第一とする歩みが再スタートしました。


仕事でも教会の礼拝や行事を優先するようになったり、どんな問題が起こっても感謝に変えられるようになりました。今はイエスキリストにあって喜びがあります。

それはローマ人への手紙5章3~9節「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」


このみことばがいつも私の内にあり励ましを与えてくださるからです。このような罪人の私を愛してくださり、救ってくださったイエス様に感謝し栄光をお返しします。



開拓・牧会を目指して

私が生駒聖書学院に来た理由は私のビジョンが開拓牧会であるというところにあります。

この生駒聖書学院は伝道に力を入れていて、ペンテコステの神学校ということで、私の教会の牧師先生から提案されて生駒聖書学院に来ました。

入学して感じることは毎日の猛声祈祷のなかで主が生きて働かれているということ。また、毎週火曜日に伝道実習があり、実際に伝道をして経験を積むことの素晴らしさを日々体感しています。

今では生駒聖書学院に来て良かったと心から思います。

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